ひかり
ここのところ写真ばかりで、コラージュを発表してなかったように思うので最新のものを1枚。
個展のための新作として作った3つのコラージュの一つなのですが、あとの2枚は個展でのお楽しみに取っておこうと思います。もっとも、他の作品とのバランスの関係で外す可能性もありますが。
展示はこれまでの作品から写真、コラージュの区別なくお気に入りを20点ばかり選んだものになりそうです。
初めての個展ということで、ショーケース(あるいはポートフォリオ)的なセレクションを意図しているのですが、漫然と選んだのではまとまりに欠けるので、「空」を極々緩いテーマとして考えています。

ひかり
コラージュ
素材の写真はPENTAX K-7 (DA 35mm Macro Limited)
およびCANON PowerShot G11にて撮影。

個展のための新作として作った3つのコラージュの一つなのですが、あとの2枚は個展でのお楽しみに取っておこうと思います。もっとも、他の作品とのバランスの関係で外す可能性もありますが。
展示はこれまでの作品から写真、コラージュの区別なくお気に入りを20点ばかり選んだものになりそうです。
初めての個展ということで、ショーケース(あるいはポートフォリオ)的なセレクションを意図しているのですが、漫然と選んだのではまとまりに欠けるので、「空」を極々緩いテーマとして考えています。

ひかり
コラージュ
素材の写真はPENTAX K-7 (DA 35mm Macro Limited)
およびCANON PowerShot G11にて撮影。

繁茂
最近、植物がやたらと元気です。
我が家の小さな庭も手入れを全くしないので、大変なことになってます。
このおんぼろの一軒家は植物たちに侵食されて徐々に自然に返りつつあるようです(笑)



撮影:全てCANON PowerShot G11
なんとなく、つげ義春の「李さん一家」を思い出して読んでみたくなったのですが、本が見つからず。
それとも、持ってなかったのか?
いや待て。つげ義春よりもっとぴったりの漫画家がいるではないか。
ユズキカズ。
この人は草木が生茂る庭をテーマに作品を描いています。植物のすべてを覆い尽くすかのような生命力。それはエロスという言葉が相応しいように感じます。庭を望む縁側では少女が気だるい時を持て余しています。そして湿潤な空気。それらが渾然一体となって濃密な世界が創られています。そういうわけで、久しぶりに『枇杷の樹の下で』(青林工芸舎)を本箱から取り出してパラパラ眺めています。


我が家の小さな庭も手入れを全くしないので、大変なことになってます。
このおんぼろの一軒家は植物たちに侵食されて徐々に自然に返りつつあるようです(笑)



撮影:全てCANON PowerShot G11
なんとなく、つげ義春の「李さん一家」を思い出して読んでみたくなったのですが、本が見つからず。
それとも、持ってなかったのか?
いや待て。つげ義春よりもっとぴったりの漫画家がいるではないか。
ユズキカズ。
この人は草木が生茂る庭をテーマに作品を描いています。植物のすべてを覆い尽くすかのような生命力。それはエロスという言葉が相応しいように感じます。庭を望む縁側では少女が気だるい時を持て余しています。そして湿潤な空気。それらが渾然一体となって濃密な世界が創られています。そういうわけで、久しぶりに『枇杷の樹の下で』(青林工芸舎)を本箱から取り出してパラパラ眺めています。


水中睡眠と目覚まし鳥

水中睡眠と目覚まし鳥
撮影:PENTAX K-7, DA 35mm Macro Limited
すいちゅうすいみん
(表記) 【水中睡眠】
(英) aquasomnia
(分野) 文化人類学
アブサディア国の人々はいつも眠たい顔をしているが、これは彼らが一様に睡眠不足の状態にあるためだ。彼らは湖や穏やかな内海など水中で眠ることを習慣としている。ぐっすりと眠ると溺れてしまうため彼らの眠りは必然的に浅いものにならざるを得ない。そんな彼らの必需品かつ愛玩動物は「目覚まし鳥」(wake-up bird)である。種類は何でもよいのだが、彼らは就寝の際に一羽の小鳥を頭に乗せる。この鳥はよく訓練されており、主人が深い眠りに陥り体が水中に沈みそうになると、嘴で頭を突いて注意を促してくれるのだ。目覚まし鳥にはアブサディア人たちは多額の出費を惜しまず、専門の雑誌や週間人気ランキングまで存在する。また、この鳥は彼らの慣用表現にもしばしば登場し、例えば「ご機嫌いかが」の意味で「あなたの目覚まし鳥は元気ですか」という言い回しをする。
彼らの神話によれば、水中で眠る習慣の起源は神の懲罰だという。アブサディア人の信仰する神は彼らと動物を区別するために彼らに言葉を与えたが、この神の言語は完璧な文法と語彙を持っており、森羅万象を正確に言い表すことができたという。神はこれをアブサディア人に与える際に、言葉の完全性を汚さぬよう、具体的には常に正確な言葉遣いを心がけるよう念を押した。しかし人間とは不完全な存在、アブサディア語は使われるうちにどんどん変化して、不完全な人間にとって扱いやすい曖昧で不正確なものに堕落していった。神がこれを見過ごすわけはなく、天上で人間に言葉を教えたことを半ば後悔していたそうだ。記憶するには複雑すぎるが数学的ともいえるエレガントな活用体系を勝手に端折って無残なものにしてしまったことも腹立たしかったが、何よりも神が嫌ったのが喩え(暗喩・メタファー)であった。言葉の正確さという点からは、これはまさしく神への冒涜であった。なぜならそれは事実と反する嘘だからだ。例えばある人が「神は私の太陽だ」と言ったとすると、神をその被造物の一つに過ぎない太陽という物理的存在と同一視していることになるが、これはどう見ても事実ではない。神は最初、喩えで話すことを一切禁止しようとしたが、すぐに不可能だと悟った。それなしでは成り立たないほど言葉の中に喩えが浸透していたのだ。そこで神は象徴的な懲罰として、水中睡眠を命じた。これはアブサディア人たちが眠りに関して「浅い眠り」とか「深い眠り」と表現するのを、喩えのばかばかしさの代表として取り上げたものである。すなわち、眠りが浅いときは意識が残っているので、水中で浅い位置に浮いていられるが、眠りが深いときは意識がなくなるので、深く沈んでしまうという、いわば現実をメタファーの字面の意味に同調させることで、その不条理さに気付かせ、言葉の正確さに目覚めさせようと意図したのである。
